川村尚敬『NHK問題への視点−テレビのグランド・デザイン−』

(kazumo website/プロデューサーノートより)
http://kazumo.jp/creator/kawamura/kawamura36.htm

(承前)
「公正」といえば、どこの、なにが、どんな公正かと、両陣営から細部にわたって、解釈の議論が起きる。わたしは、だから、現在のテレビ番組の「放送基準」はまちがってはいないが、時代に適合する力を失っていると考えるのだ。
つまり、この「放送基準」は、テレビの放送が地上波数局に限られていた時代のモラルに基いたもので、現在のように映像が氾濫する時代には、有効ではないのである。
そのことは、殆どの、メディアに関係しているものにはわかっている。それでいながら、古い放送基準や報道倫理から踏み出さないのは、既存のメディアの巨大化と、空虚な権力化が生んだ虚像がまだ、メディアを支配しているからである。
新しいメディアの「グランド・デザイン」を考えることに躊躇している間に、モラルの腐敗は必ず進み、気がついたときには取り返しのつかぬ事になる。それが、今回の事態の底にあるものだろう。

12月の末にNHKは、視聴者の疑問に答えるという番組を放送したが、その中で、わたしが共感したのは、今野勉さんの「NHKの製作現場がどこかおかしい」と言う発言である。今野さんは、かつてNHKの現場が持っていた番組制作への意欲、情熱、倫理観、といった無形の番組への原動力が消えうせ、形式的なルーティンの番組制作になっていると指摘したのだ。これは、わたしも日ごろNHKの人々と接していて感じるところである。

わたしは、今野さんよりも身内に近いので、一緒に仕事をした若い仲間もまだ社内にいる。番組について突っ込んで話す機会も多いが、番組制作について、できる人ほど、脱力感を持っている。彼らは内部で、組織の権力化にうんざりしている。製作現場に、創造力を発揮することよりも、組織の論理を守る事なかれ主義が行き渡ってしまっているのだ。(やはりNHKに在職したことがある柳田邦夫さんが、「週刊文春」でそのあたりの事情を具体的に書いていて説得力がある)

これは、組織の巨大化による病癖である。「番組基準」の持っていたかつての無謬性の神話は、現実には通用しない。複雑で、多様な様相を持っている現代に向き合うには、硬直した過去の「番組基準」よりも、もっとしなやかな精神が必要でである。見ているほうも、映像とともに育ったしたたかな視聴者である。メディアには完全であるよりも、多様な表現と情報を求めている。
その現代に、多様なアプローチを可能にするためにこそ、メディアは拡大してきたのである。メディアには、もっと自由な多様な表現が求められている。どのチャンネルをひねっても同工異曲のパンチのない番組の氾濫は、巨大な組織の墓石である。もったいないではないか
(後略)